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ITPS REPORT ABSTRACT <No.0001>

Oct.2000

19世紀の来日オランダ人技術者と近代港湾及び運河の建設−淀川の運河化・三国港・野蒜港・大阪港・横浜港−
上林 好之

Transfer of Harbors Construction Technology from the Netherlands in Meiji Era - Canalization of the Yodo River, Construction of Mikuni Port, Nobiru, Osaka and Yokohama Harbors-
Researcher: Yoshiyuki KAMIBAYASHI

 

 明治政府は1872(明治5)年から1879(明治12)年にかけてオランダ人技術者を招聘した。その目的は、東京・大阪など大都市の洪水氾濫防止と日本の台所大阪に近代的海港を築造することであった。彼らのうち、Johannis de Rijkeは1873(明治6)年から1903(明治36)年までの約30年近く滞日してその目的達成するなど、大きな功績を残した。筆者は昭和37(1962)年オランダ人技術者の業績に出会って以来、オランダ人技術者の足跡を同じ立場と同じ期間建設省の河川技術者として勤め、平成3(1991)年デ・レイケがIr.George Arnold Escherへ宛てた手紙やエッシャーの63冊の回想録をエッシャー家で発掘し、原文で読むうちに、彼らの業績が正しく評価されていないことが少しずつ明らかになった。 デ・レイケの仕事は若い日本人技術者の台頭で波乱にとんでいた。明治11(1878)年東京大学理学部工学科土木選科を卒業し日本人土木技術者が初めて誕生した。欧米の大学へ留学していた若者も優秀な技術者となって次々に帰国した。彼らは内務省土木局へ採用され、行政官・技術官となった。日本の公共施設の整備は組織として行なわれるようになった。オランダ人技術者達のチームとしてまたは個人としての業績は必ずしも正しく評価されなかった。 その理由を列挙すると、次のようにまとめられる。1. 明治政府は、日本人が公共施設を計画・設計・施工・監督したことを国民に示し、業績は全て日本側にあるとした。オランダ人技術者はあくまでも助言者として雇い、意思決定に参加させなかった。2. オランダ人技術者には彼らの母国語でない英語・フランス語の通訳・翻訳者がつけられることもあり、オランダ人技術者は、母国語でない英語・フランス語を使うこともあった。彼らの会話や和訳版報告書は必ずしも日本人に正確に伝えられなかった。3. 翻訳者は「科学」とそれに基づく「技術」の高等教育を全く受けていなかった。彼らはオランダ人技術者の使った用語や文章を正しく和訳できなかったところもある。4. 日本人の高等技術教育を受けた者の中には、正規の高等技術教育を受けていないデ・レイケよりも自分達の方が優れていると考え、オランダ人技術者の業績や人間性を過少評価する者もいた。5. 明治初期から今日に至るまでオランダ語を読める日本人技術者がいなかったので、オランダ人の業績を正確に評価できなかった。 筆者は平成5(1993)年から研究成果を土木学会等へ研究ノートとして発表し続け、平成11(1999)年12月には「日本の川を甦らせた技師デ・レイケ」というドキュメンタリーを書いた。その本は日本とオランダの関係者に多くの関心を寄せられ、近々オランダ語にも翻訳されオランダでも出版される。平成12(2000)年に催されている日欄交流400周年記念事業にも参加する機会が多い。 今回「日欄交流400周年記念交通運輸シンポジウム」で、東京大学名誉教授中村英夫工学博士から「日本の近代港湾構造に係わる技術移転」について詳しく報告するよう依頼された。 筆者は大学で土木工学を専攻したが、卒業以来今日まで主として建設省に勤務し、土木技術の中の水文学・水理学をベースとする水工技術を用いて河川改修の計画・設計・施工並びに国土計画・地方計画の立案に従事し、港湾の計画・設計・施工についての経験は全くない。本文は、デ・レイケと同じ立場で、近代港湾が築造されるまでの過程を、水工技術をベースに河川改修・国土計画・地方計画ひいては発展途上へ技術移転する観点から論じたい。


From 1872(Meiji 5) to 1879 (Meiji 12), the Government of Meiji Administration invited eight persons of civil engineering experts from the Netherlands and assigned them to the Civil Construction Bureau of the Ministry of Home Affairs. Primary purposes of this employment of foreign engineers are for the prevention of floods and construction of modern ports and harbors. They were, however, also engaged in many other public works such as river improvements, port construction, land reclamation, etc. The basic policy of the Meiji Government was to attain the national prosperity and military strength through higher production and industrial development by accelerating the building up of various infrastructures including construction of railways, roads and bridges, ports and harbors, river improvements and waterworks. To implement this policy, totally one hundred twenty (120) numbers of foreign engineers were invited to Japan during the Meiji era. Among them about sixty (60) engineers were from British and forty (40) were American engineers. They were mostly in charge of railways, roads and bridges construction. Others were engineers from Dutch, German, French and so on. Eight (8) civil engineers from the Netherlands invited by the Civil Construction Bureau of the Home Affairs Ministry were assigned to the works of concept of plan formulation, designing and supervision of flood prevention measures and modern seaports construction. They, particularly De Rijke and Mulder were made involved in the technical inspection from the standpoint of the river and sea coast administrator, that is the Civil Construction Bureau of the Home Affairs Ministry, for the documents submitted to the Breau on railways, roads, bridges and ports construction projects planned and designed by British engineers. This sometimes caused troubles with British engineers in charge.

 

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